音楽を聴いて元気が出たときや、
音楽を聴いて癒されたとき、
「あ、いま自分、元気なかったんだ」
と驚くことがあります。
特別すばらしい音楽を聴いた、とかいう事でもなく、いつも聞いているようなものなのに、回復した気力の量の多さで知らない間に元気が沢山減っていたことに気づくのです。
今日は昨日の長山氏の引越しの手伝い。
朝から町田で車を借りて運転するために、
荷造りの邪魔にならないよう(運転のため深夜は手伝わない)、相模大野の漫画喫茶のフラットシートで寝ていました。
しかし久しぶりの漫画喫茶寝なのか、
明るいためなのか、空調が暑つすぎたためなのか、
全然眠れませんでした。
上着を目の上に被せて光をふせぎ、水分をとったり、シャワーを浴びたり、
色々していたのですが、結局寝たのは午前7時頃。
起きたのは9時でした。
これなら荷造りを手伝っていればよかったです。
10時半に町田で車をとり、
満載のゴミを積んだ車で長山家とゴミ処理場を2往復して、
大宅さんチェックの16時半にギリギリ部屋を明け渡せるようになりました。
ちょーさんのお母さんの力も強いです。
最後の荷物を長山家へ運ぶ運転の前に、
長山氏が大家さんと話をするというので、その間にご飯を食べることにしました。
寝くなるといけないので、朝から殆ど胃に入れていなかったのです。
疲れていたのでしょうか。
相模大野駅を飯場をもとめてウロウロしている間、
頭の中には殆ど自分自身の意識がいなかったように思います。
ずっと僕は頭の中で友人と話をしていました。
というより、一方的に僕がその友人に自分の事を話していたような気がします。
もちろんその友人というのは実在する人ですが、
そのとき頭の中の僕が話しをしていた友人は、僕が勝手にそれっぽく再現して頭で展開させた友人です。(当たり前)
僕(体)は頭の中で友人と会話をしながら、フラフラと街を歩いていました。
その時も意識の目や足は最低限の注意だけで看板を見たり路地に入ったりしてどこでご飯を食べようかと考えていました。きっと心ここにあらず、といった言葉がそのままな感じの、フラフラした足取りだったのではなかいかと思われます。
僕は友人に自分の事を話していました。
詳しい事は別にいいので省きますが、
誕生日に何が欲しいか、と聞かれた時の返答とその答えの解説を、より正確に伝わるように言葉を選びながら、理屈っぽく、時には抽象的にしか表現できないことはそのままに、
何より自分の心をさぐりながら素直に、すべて伝わるようにと努力をしながら、延々と話していました。
そしてロイヤルホストに決めてたどり着いて、脳内会話も一通り終わったあと、
「あ、これは音楽のときのあれと同じだ」
と思いました。
心が何かそういう会話を求めていたのか、その後、少し、頭の疲れ的なものがとれていました。なんだかこのままであれば、今日は漫画喫茶でも眠れそうな気がするくらいの爽快感があります。
眠れなかった事が原因でこうなったのか、それとも眠れない原因があったからこういう想像が展開されたのか。
なぜその友人に自分の中身を告白する必要があったのか、友人が発するのがその質問である必要があったのか、僕は何を目的にしていたのかなど、ぼんやりとしかわかりませんが、
何か、心の平均が崩れていて、それを元にもどそうとする何かだった気がしてなりません。
心理学的にいうと体系的に説明されている事なのかも。
僕(体)の事だけれど、中身は良くわらかないことが多くて不思議です。
この会話のシミュレーションをした後では、
実際にこの友人とこういう話をするわけでも、出来るわけでもないのに、
そういう話をしたかったのだろうなあと、不思議な感想が残りました。
これから長山氏実家へ荷物を運んできます。
眠いー。